※ 承前 戦前・戦中編
治安維持法違反で逮捕され、未決拘留されていた戸田は、懲役三年執行猶予五年の判決
をうけ、昭和20年(1945年)7月3日豊多摩拘置所から保釈された(『人間革命』は、この
場面から始まる)。戸田の事業は崩壊し、多額の負債まで抱えていた。
事業を再開した戸田は、新たなビジネスとして通信教育を思いたち、早速行動を開始す
る。敗戦直後には、新聞広告を出すなどその動きはすばやかった。当時の模様を、戸田の
伝記から引用する。
> 八月二十三日、アメリカ占領軍の第一陣が、神奈川県の厚木飛行場に進駐した日の
> 「朝日新聞」の一面の左下隅に、一つの広告が載った。
> 「日本正学館」――戸田の再建第一歩の名称だった。その広告以外、他に広告はまっ
> たくなかったのだから、たしかに戸田の立ち上がりはすばしこかったといえるだろう。
> 「中学一年用、二年用、三年用、数学・物象の学び方・考え方・解き方(通信教授)」
> と、大きな活字が並んでいた。そして、小さい活字の説明は――数学・物象の教科書
> の主要問題を月二回解説し、月一回の試験問題の添削をする。解説を「綴り込めば得
> 難き参考書となる」六ヵ月完了。各学年とも六ヵ月分二十五円。前納のこと。資材の
> 関係で会員数を限定する。「内容見本規則書なし」と書かれていた。
(日隈威徳著『戸田城聖』より引用)
※ 『人間革命』第一巻にも同様の記述がある。
戸田は、戦前成功した学習参考書のノウハウをもとに、新たなビジネスとして通信教育
を立案したわけだが、この着想は、戦争末期の学徒動員で、工場での労働や農村での食糧
生産にあたらされており、教育がおろそかになっていた、中学生・女学生の学習意欲に訴
えるものであり、申し込みが殺到した。この事業は、ごく短期的には成功したといえる。
また、占領軍の進駐にともない英語ブームが起こったが、戸田はこれにもすばやく対応
し、9月には英語の通信教育も開始した。
出だしは好調だったものの、このビジネスは当時の急激なインフレにより頓挫する。用
紙代や送料が値上がりし続けるのに対し、前金制ではそれを価格転嫁できないのだから、
当然である。
インフレに対応できるビジネスモデルへの転換を図った戸田は、単行本の出版を再開し
た。単行本なら、発売時の物価に応じて販売価格を変更できるので、前金払いの通信教育
よりも資材の高騰に対応しやすいし、娯楽に飢えていた当時の国民は本を求めていた。
戸田は戦前、版権を取得していた大衆小説を出版した他、当時、流行語になっていた民
主主義についての本の刊行も計画したという。
終戦直後の日本では、インフレに加えて物資の不足も、事業を行ううえで深刻な問題で
あった。特に出版業においては、紙をいかに確保するかが重要な経営課題だった。『人間
革命』から、関連する記述を引用する。
> 戸田も、この難関の克服に、懸命にならざるをえなかった。彼の、豪放にして細心
> な事業手腕を、思いきり発揮させたのもこの時である。
> 彼は、自社の紙の入手に奔走するばかりでなく、同業の弱小出版社に、紙をまわし
> てやることもしばしばであった。弱小出版社は蘇生し、彼らは心から感謝した。彼の
> 社には、いつか衛星のように、大小の出版社が出入りするようになっていった。彼の
> 信義と包容力は、出版界の一角に、小さな星群をつくっていった。これが、やがて後
> に、彼を中心とする金融機関の設置にまで、発展するのである。
> ある時、戸田は、必要量の紙を、どうしても手にいれねばならなくなった。だが万
> 策つき、計画は座礁した。その深夜――彼は、ガバッと寝床の上に起きあがって、
> 「諸天善神、広布の礎のための事業だ。戸田城聖のために、紙を運んでこないか」と、
> 諸天に叱咤の叫びを放った。翌日、交渉の途切れていた社から、思いがけず必要量の
> 紙が、入荷する手はずになったのだった。
(『人間革命』第一巻より引用)
戸田の「豪放にして細心な事業手腕」とは、具体的にどのようなものだったか、『人間
革命』には述べられていない。しかし、物資不足のなかにあって、同業者に紙をまわすこ
とができるほど大量の紙を入手できた、戸田の「信義と包容力」あふれる経営手法につい
て述べられている文献があるので、以下に引用する。
> そこで新聞、雑誌などにたいする当時の用紙の供給は、占領行政のもとで、政府の
> 用紙割当委員会が民間の窓口となり、G・H・Q(連合軍司令部)が最終的に用紙割
> 当てを決定することになっていた。具体的にいえば、G・H・Q内のC・I・C(米
> 軍特務機関が、この種の情報担当をしていたのである。
> こうした終戦後の環境下、政友会の院外団員もしていたことのある戸田は、当時の
> 大政治家・古島一雄に、彼の得意とする世渡り術をもって近づき、みごとにG・H・
> Qあての紹介状をもらうことに成功したのである。
(中略)
> この戸田の戦略・戦術は、みごとに的中した。なぜなら、彼は、この古島一雄の紹
> 介状を持ってC・I・Cを訪れ、さしあたり、保守系の『日本婦人新聞』を通して大
> 々的な反共運動のキャンペーンをすると工作、毎月、新聞二十万部相当量の用紙割当
> てを獲得することに成功したからである。婦人新聞の実際の用紙割当必要量は毎月、
> 二万部数相当量のものであったので、戸田は差し引き十八万部数相当量にものぼる用
> 紙を、得意のペテンの術によって、毎月、自分のものにすることができたわけだ。
> 彼は、この工作して詐取した大量の用紙を、用紙不足にあえぐ出版市場にヤミで横
> 流し、当時の金額で毎月、三~四十万を下らない巨額の不当利益をあげるとともに、
> この大金を、彼の得意とする「酒」と「女」と「事業」に乱費したのである。参考ま
> でに、当時の三~四十万の金の値打ちは、現在の物価指数を千倍として、いまの金額
> でいえば、三億円~四億円にのぼるものである。
(室生忠・隈部大蔵共著『邪教集団・創価学会』より引用)
※ 上記引用については、補足で解説を加える。
またしてもインチキな手口で巨利を得た戸田だが、この不正は半年ほどで露見し、戸田
はGHQから取り調べを受けた。その供述調書の内容には〝狂信的な仏教団体を指導する
が、本人はすべて計算ずくで動くタイプだから、ことさらその信仰に狂信的であることは
ないと述べる〟という趣旨があるという(『邪教集団・創価学会』による)。
この用紙詐取事件で、戸田は刑事責任を問われることはなかったが、不正な利益につい
ては、5~6年かけて返済することになった。しかし、当時のインフレを考えると、その
負担はそれほど大きくはなかったのかもしれない。
昭和23年(1948年)、戸田は雑誌の刊行を開始する。まず、少年雑誌『冒険少年』を発
行し、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊した。この『ルビー』の内容は、大絵巻絢爛「新
婚伊豆廻り絵巻 花恥し 新婚の夢」、大特集「未亡人と性」、大特集「小説・産児制限」
といったものだった(野田峯雄著『池田大作 金脈の研究』による)。どうもあまり上品
な雑誌ではなかったようである。この頃、池田大作も日本正学館の社員となっている。
こうした雑誌は、当初は好調な売れ行きだったものの、その後、戦争の影響で休刊して
いた大出版社の雑誌(『文芸春秋』『婦人公論』など)が復刊しはじめると、人気が低迷
し、返本率が急上昇して、ついに休刊を余儀なくされた。
日本正学館は倒産し、戸田は新事業である金融業に進出するが、それについては次回述
べる。
補足1 古島一雄について
上記引用にある古島一雄は、明治から昭和にいたるまで活躍した政治家であり、戦後は
吉田茂の相談役をつとめるなど、小さからぬ影響力をもつ人物であった。
創価学会とは、戦前の創価教育学会の頃から関わりがあり、昭和12年(1937年)、麻布
の料亭で創価教育学会の正式な発会式が開かれた際に、顧問に就任している。
『人間革命』第一巻にも、釈放された直後の戸田が古島に面会し、戦争終結の時期を聞
く場面が描かれている。
補足2 日本婦人新聞について
戸田城聖は、日本婦人新聞とは浅からぬ縁があった。
『人間革命』第一巻「一人立つ」の章に、西神田の一角にあった三階建ての売り家を、
昭和20年9月に戸田が購入し、日本正学館の事務所にしたと述べられているが、これは事
実と異なる。
実は西神田のこの建物には、日本婦人新聞の社屋で、戸田はそこに間借りしたのである。
これは、学会の有力幹部・和泉覚が日本婦人新聞の総務局長だった縁による(和泉は『人
間革命』には「泉田弘」として登場、後に創価学会の第四代理事長を務める)。
この西神田の事務所には、「創価学会」の看板も掲げられた。創価教育学会からの名称
変更も、事業拠点変更と同時期になされたのである。
戸田は〝一人立った〟のではなく、頼りになる仲間に支えられていたわけだが、『人間
革命』では、池田大作(作中では「山本伸一」)を偉大に見せるためか、それ以外の人物
の貢献を過小に描いているようである。