2017年4月6日木曜日

創価学会が社会から受け入れられない理由

1、対自(外から見た姿)と即自(自ら思い描く自分の姿)の矛盾

 外部から見た創価学会の実態は、集金団体・集票団体・人権侵害団体であるが、学会員
は、「創価学会は唯一の正しい宗教」と考え、財務などの金集めや、F取りと称する選挙
運動、脱会者・批判者への嫌がらせも、功徳になる、言い換えると現世利益につながる宗
教行為として実践している。

 だが、学会員が、主観的には信仰に基づいた正しい行為と信じ、実践していることの多
くは、一般社会の大部分の人にとって、ただの迷惑行為でしかない。

 学会員にとって創価学会の主義主張は、原則として妥協してはならない宗教的理念であ
り、時に形勢不利にあって妥協を余儀なくされることがあったとしても、究極的には、彼
らが社会に歩み寄るのではなく、社会の方を彼らの宗教的理念に屈服させることを目指し
ている(この点、創価学会は伝統宗教よりも、共産主義などのイデオロギーに似ている。
学会が共産党と敵対するのも、似た者同士だからだろう)。

 外部の人間にとっては、創価学会のこのような姿勢は、既成の社会秩序への挑戦としか
見えない。学会員が、自らが正しいと考える信念を実行しようとすればするほど、社会か
らより胡乱な目で見られるという結果を招いてしまう。

 このジレンマは、創価学会の教義に根ざすものであり、克服は容易ではない。実際、創
価学会への批判は、昨日今日に始まったものではなく、数十年前から同じような批判が繰
り返されているが、創価学会の体質はまったく何も変わっていないように見える。


2、聖俗を一致させる前近代的思考

 創価学会は、自らを「唯一の正しい宗教」と規定し、彼らの宗教的論理を社会全般にわ
たって適用・実践しようとしている。

 学会員は自らの正当性の根拠を、鎌倉時代の僧、日蓮に求めるが、日蓮の主張もまた、
彼の生きた時代の歴史的制約を免れるものではない。

 日蓮は、天台大師智顗が唱えた仏教経典の序列「五時八教の教判」に準拠し、法華経こ
そが最も優れた教典と主張し、法華経に基いた鎮護国家を構想していた。

 鎌倉時代において、大寺院は広大な荘園を領する封建領主でもあり、高僧は統治者でも
あった。寺領においては、宗教的正統性が統治の正統性と直結していたのである。

 日蓮の主張は、こうした鎌倉時代の歴史的・社会的文脈を踏まえて理解する必要がある。
当然のことながら、それは現代社会において、そのまま適用可能なものではない。

 中世の社会や、その時代に生きた人々の考え方が前近代的だからといって、それを批判
することは妥当ではないし、そもそもそんな批判をしても何の意味もない。

 だが、前近代の論理を現代でそのまま実践しようとする者が、もし現われれたとすれば、
社会との軋轢は避けがたい。

 創価学会は、聖俗未分離の前近代の論理を、そのまま現代社会に持ち込もうとしている。
批判を受けて当然である。

 現代社会においては、政教分離が原則であり、信仰は個人の内面の問題とされている。
しかし、創価学会にとっては、信仰は統治の基本原理とすべきものであり、創価学会以外
の宗教に対して信教の自由を認めることは、彼らの理想とは相容れない。

 創価学会・公明党は、「王仏冥合」という、聖俗一致を目指す主張を、公的には取り下
げたが、彼らが実際にやっていることを見る限り、個々の学会員の思考様式・行動様式に
は、聖俗一致の前近代的発想が根深く刻印されていると言わざるを得ない。


3、ルサンチマンに根差した承認欲求

 創価学会員には、社会的には底辺・下層とされる出自が多い。そうした出自に由来する
社会へのルサンチマンと、その裏返しとして社会からの承認を求めようとする傾向が、彼
らの行動に、小さくない影を落としている。池田大作が、世界各国から勲章や名誉称号を
集めるのは、その典型例であろう。

 問題は、創価学会が社会から受け入れられるための手段として、社会規範を内面化する
自己陶冶ではなく、社会の方を自分たちにとって都合のいいように変えようと試みたり―
―公明党が政権与党になっていることや「総体革命」と称する各界への進出――それがか
なわない場合、言論出版妨害事件の後に、王仏冥合を形だけ取り下げたことに見られるよ
うに、面従腹背的対応で切り抜けようとすることにある。

 前述したように、創価学会の目指す社会は、近代の原理とは相容れないものであるため、
彼らが「あるがままの自分たちを認めよ」と社会に求めることは、必然的に一般社会との
衝突を引き起こすことになる。

 昨年11月の会則変更で、学会が自らを「創価学会仏」と規定したことに見られるように、
彼らは自己神格化・絶対化を進めており、自らを社会に馴致させようとする姿勢は見られ
ない。

 こうした事実を目にすると、残念ながら、創価学会の反社会的体質は、当面のところ変
わりそうにないと言わざるを得ない。