2019年10月27日日曜日

相承疑惑について

 日蓮正宗の第67世法主を務めた故・阿部日顕氏について、創価学会は過去20年間、「先
代の細井日達氏から相承を受けていないニセ法主である」と、主張してきた。

 この相承についての疑惑を最初に公の場で述べたのは、創価学会の元顧問弁護士だった
山崎正友氏である。山崎氏は週刊文春に掲載された手記で、以下のように述べている。


>  日達上人は、事実上の“指名”なり、心づもりなりを周囲の人人に話されたことはあ
> るが、“御相伝”そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、だ
> れもいなかった。
 (『週刊文春』1980年11月20日号)

>  阿部日顕は、昭和五十三年四月当時、「大僧都」の位だったから、相伝を受ける資
> 格は“緊急止むを得ざるとき”以外にない。当時の状況からみて、緊急止むを得ぬとは
> まったく云えないし、もし本当にゆずり受けたのなら、そのとき少なくとも能化にな
> っているか、宗規に従って「学頭職」についていなくてはならないのである。
>  あらゆる状況――前後を通じて――から見て、阿部日顕は、相伝を受けているとは
> 考えられず、また、宗規に照らしても、違法である。
 (『週刊文春』1981年2月12日号)


 こうした見方をしていたのは山崎氏だけではなく、日蓮正宗の僧侶の中にも、阿部日顕
氏の相承を疑う者は少なくなかった。

 当時の日蓮正宗内部には、創価学会が事実上、池田大作への個人崇拝を信仰の核とする
集団になっていること等について、教義からの逸脱であるとして憤りを隠さない僧侶も多
かった。

 法主になる前から創価学会に対して宥和的だった阿部氏は、就任後、学会への批判を禁
止した。反学会派の僧侶たちがそれに抗議して大規模な集会を開くなどしたため、阿部氏
は罷免や降格などの強硬な対応をとった。

 処分を受けた僧たちは、日蓮正宗から離脱して新たに正信会を結成。昭和56年(1981年)
1月には、阿部氏を相手どって、日蓮正宗管長としての地位不存在確認を求める訴訟を起
こした。

 この裁判の第一審判決は、昭和58年(1983年)3月30日に出され、原告側(正信会)の訴
えが退けられる結果となった。翌日の聖教新聞は以下のように伝えている。

(『聖教新聞』昭和58年〔1983年〕3月31日付)

 〈一部抜粋〉
>  御法主日顕上人猊下の血脈を否定する者(岩瀬正山ほか一七五人)が、日顕上人猊
> 下等を相手どって日蓮正宗の管長、代表役員の地位不存在確認の本訴と、それらの職
> 務執行停止を求める仮処分の裁判を起こしていたが、静岡地裁(高瀬秀雄裁判長)は
> 三十日、宗門側の主張を全面的に認め、岩瀬らの訴えをしりぞけた。
>  日顕上人猊下を訴えていたのは「正信会」を称する一派で、彼らは全員、日顕上人
> の血脈を否定し、異議異端の徒としてすでに擯斥処分(僧籍はく脱)に付されている。
 (中略)
>  当然、予測された判決とはいえ、信教の自由を守る基本精神のうえからも、高く評
> 価されてよい。


 裁判所が正信会の主張を退けた理由は、「宗教上の教義ないし信仰の内容にかかわる事
項についてまで裁判所の審判権が及ぶものではない」との判断による。

 つまり、教義上の問題について判断するのは裁判所の役割ではない、ということである。
 この裁判はその後、最高裁まで争われたが、そこでも一審と同じ理由で正信会側が敗訴
している(この事件は「審判権の限界」に関する代表的な判例の一つとされている)。

 この件は、創価学会の幹部にも感銘を与えたものと見え、副会長だった野崎勲氏がサン
デー毎日に寄港した「学会批判者たちの終焉」で論評を加えている。


>  この裁判は、山崎が昭和五十五年十一月に「週刊文春」の手記で、日蓮正宗の現法
> 主である日顕上人猊下の血脈相承についてうんぬんしたのをキッカケとして、山崎を
> “軍師”と仰ぐ元日蓮正宗僧侶グループ「正信会」が現法主を“身分詐称”呼ばわりして
> 五十六年一月に提訴したものである。しかし、この血脈論議の奇妙なところは、日顕
> 上人が先代日達上人の後を継がれて法主の座につかれた五十四年の七月時点はもちろ
> んのこと、それから一年すぎても当の「正信会」はおろか、山崎自身も含め、宗内の
> 何人も何らの異議も唱えていなかったということである。
 (中略)
>  もとより、こうしたおかしな経過に、明らかなように、この訴訟自体、到底まとも
> なものでないことはいうまでもないが、本年三月三十日、静岡地裁は、宗門側の主張
> を全面的に認め、「正信会」側訴えを却下する判決を言い渡したのである。
 (『サンデー毎日』1983年5月29日号)


 野崎氏は京大卒の俊英として、若くして池田センセイから重用された逸材というだけあ
って、その主張は一応もっともなもののように思える。少なくとも私ごときには、反論す
るスキを見つけられそうにない……。

 しかし、この野崎副会長のご高見に対し、真っ向から異議を申し立てる者が、時を隔て
ること十数年後に現われたのである。何という身の程知らずであろうか。

(『創価新報』平成11年〔1999年〕6月2日付)

 創価学会は平成3年(1991年)に日蓮正宗から破門されて以来、その決定を下した阿部
日顕氏を悪罵し続けていたが、彼の法主としての地位そのものに疑問を呈する主張をした
のは、この創価新報の記事が初めてだった。

 ※ 創価新報は平成11年5月5日付で「日顕10の大罪」と題した特集記事を掲載し、阿部
  氏を「仏法史上、最大の破壊魔」「人類の敵」などと中傷しているが、その際に挙げ
  られた10の罪過の中に、相承に関するものはなかった。

 これ以降、創価学会による阿部日顕氏への罵詈雑言に、新たに「ニセ法主」が加わった
のである。

(『聖教新聞』平成11年〔1999年〕8月10日付)

 彼ら自身が、過去に「阿部氏が法主に就任した直後に異議を唱えなかった者が、何年も
経ってから疑いの声を上げるのはおかしい」と主張していたことを忘れたのであろうか。

 私には「一目で分かる偽法主を、『御法主日顕上人猊下』と呼び奉っていた新聞がある
らしい(爆笑)」としか、言いようがない。

 学会員に言わせると「たとえ何があろうと、創価学会は絶対に正しい」らしいのだが、
実際に彼らが主張してきたことの多くは、まったく一貫性がなく、その時々で都合のいい
ことを言い張っているだけにしか見えない。

 創価学会の主張のほとんどは、何の正当性もない世迷言に過ぎないのだ。阿部日顕氏の
相承についての彼らの言い分の変遷は、それを証明する好例である。


蛇足

 阿部日顕氏が実際に相承を受けたか否かについては、私には判断のしようがない。
 創価学会は「相承はなかった」と言い張っているし、日蓮正宗は「相承はあった」と言
い続けている。部外者にとっては、不毛な水かけ論でしかない。

 当ブログで述べてきたように、私は日蓮の教えが「唯一の正統な仏法」だとは考えてい
ないし、一歩譲って日蓮の教えに何らかの意義があると認めたとしても、日蓮正宗や創価
学会がその正統な継承者だとは言えない。

 繰返しになるが、阿部日顕氏に相承があろうとあるまいと、創価学会や日蓮正宗がカル
トであることに何に変わりもないのである。


補足 山崎正友氏について

 阿部日顕氏の相承に関する疑惑について最初に口火を切った山崎正友氏は、後に前言を
翻して阿部氏を正統な法主と認め、日蓮正宗に帰服した。

 山崎氏が法主就任直後の阿部氏を敵視したのは、阿部氏が創価学会に対して過度に肩入
れしたためだと思われる。

 当時の山崎氏は、既に創価学会と激しく対立していたため、池田大作の傀儡のように振
る舞う阿部氏も許せなかったのであろう。

 しかし、後年、池田に愛想をつかした阿部氏が創価学会を破門したことを見て、評価を
改めた。山崎氏は創価学会の破門を知った感慨を、以下のように述べている。

>  平成三年暮、池田大作が日蓮正宗から破門されたニュースが新聞に掲載され、テレ
> ビで放映された。週刊誌の報道が続いた。
 (中略)
>  創価学会にかかわってから、三十五年になる。私の人生の働きざかりのすべての期
> 間である。初めの二十年はひたすら池田大作に忠節をつくし、創価学会を大きくし守
> ることに尽くした。あとの十五年は、池田大作の野望を阻止し、創価学会を倒すこと
> に全力を傾注した。創価学会にふりまわされた人生だった。それとも、いよいよお別
> れである。三十五年ぶりの、心の解放感だった。それにしても日蓮正宗の首脳は、よ
> くぞ決断されたものだと思った。
 (山崎正友著『平成獄中見聞録』)

 ※ 当時、山崎氏は創価学会に対しての恐喝事件で有罪判決を受け、黒羽刑務所に服役
  中だった。有罪になったことについて山崎氏は、「創価学会側の集団偽証のため」と
  主張していた。

 山崎氏が誠実な信仰者であったとは言い難いのも事実である。彼が阿部氏に前非を詫び
て関係修復を図ったのは、創価学会との敵対関係が抜き差しならないものになっていたた
め、日蓮正宗とも敵対し続けるのは賢明ではないという打算もあったのではないかと思わ
れる。

 信仰を人生における最重要事項とみなす人々の中には、山崎氏の変節を許せない方もい
るのだろう。創価学会に批判的な方の中にも、山崎氏には辛口の評価を下す向きも少なく
ない。

 しかし、私から見れば山崎氏は、創価学会と池田大作の反社会性を暴いた最大の功労者
の一人である。山崎氏の功罪についても、折を見て論じたいと思う。

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2019年10月20日日曜日

大石寺について

 大石寺(静岡県富士宮市)は日蓮正宗の総本山であり、開山以来、700年を超える歴史
を有する古刹である。

 破門される前の創価学会は、大石寺だけが日蓮の教えを正統に伝えているとし、「富士
の清流」と美称してその神聖さを喧伝していた。以下にその一例を挙げる。

(『聖教新聞』昭和29年〔1954年〕8月1日付)

 だが、日蓮正宗の信徒でも創価学会員でもあったことのない私にとっては、かつての創
価学会が「清純そのもの」だと主張していた大石寺のあり様は、相当にいかがわしいもの
に見える。今回は、そうした点について述べる。


1.御華水

 御華水とは大石寺の境内にある湧き水のことで、御本尊へのお供えものとしても用いら
れていた。この御華水について戸田城聖は、信者からの質問に応えて以下のように述べて
いる。


>  二十日も熱を出していた病人に御華水を飲ませた所、急に熱が下がって病気が治
> った。その人の親は信心していなくて、それは時期が来たから治ったというが、
>  御華水を飲ませれば病気は治ると、私は一遍も教えた覚えはない。水を飲ませて
> 治すというのは仏立宗や霊友会の教で当学会の教にはない。それは邪宗から転向して
> 来た者がいい始めたものである。
> 但し御華水は絶対腐らない水である。だから七百年の間大御本尊様に捧げる水はあれ
> に決まっている
>  初心者に対しては只当山には不思議な湧水があると教えれば良い。御華水によって
> 治ったのは偶然か、それとも信心の一念が水を通じて通ったものと思う。
 (『聖教新聞』昭和30年〔1955年〕8月7日付)


 戸田センセイいわく「絶対腐らない不思議な水」であるらしい御華水だが、この言葉を
信じて御華水を水筒に汲んで持ち帰り、それを飲んで食中毒になった者がいたため、後日、
大石寺では御華水を持ち帰ることを禁止したとの由である(植村左内著『これが創価学会
だ』による)。


2.御肉牙

 御肉牙とは日蓮が在世の時に自ら歯を抜き、相承の証として日興に授けたもので、代々
の法主に受け継がれてきたのだという。

 大石寺の寺伝によれば、広宣流布が実現した暁には、御肉牙が光明を放つことになって
いるらしい。

 この御肉牙の根元には歯茎の肉がついており、不思議なことにその肉が次第に増えてい
るのだとか……。

 宗祖や高僧にゆかりの品を伝えている寺院は多いが、このような奇怪なシロモノを「相
承の証」として有難がっている宗派は、あまりないのではないかと思われる。


3.大御本尊

 弘安二年(1279年)、日蓮が「出世の本懐」として作成したという木彫りの曼荼羅本尊。
楠の板に彫られており、彫刻したのは弟子の日法だという(以下、以前述べたことと重複
するが、ご容赦いただきたい)。

 日蓮直筆の曼荼羅本尊は120余り現存しているが、日蓮正宗の教義ではこの大御本尊と
大石寺法主が書写したその複製だけが、末法の衆生を救う力があるとされている(当然の
ことだが、他の日蓮系宗派はこの主張を認めてはいない)。

 かつての創価学会は、この大御本尊を拝むために「登山会」と称して大石寺に参詣し、
大御本尊とその複製以外のものを信仰することは「誤った信仰」だと主張していた(現在
では、大御本尊を拝む必要などないと言っている)。

 この大御本尊については、古くからその信憑性を疑う声が絶えなかった。
 私見を述べると、素人目に見ても大御本尊を本当に日蓮が作らせたとは信じがたい。

 まず、日蓮の真蹟遺文中に「出世の本懐」として、特別な本尊を作ったと述べているも
のなど一つもない。

 また、大御本尊は楠に彫られているが、弘安二年当時、日蓮が居住していた身延山には
楠は自生していない。

 さらに大御本尊は楠を平面に製材した上で彫られているが、板を平面に加工するために
必要な台カンナは、鎌倉時代の日本にはまだ伝わっていなかった(台カンナは室町時代に
中国から伝来した)。

 既に多くの論者が指摘してしている通り、大御本尊は後世の偽作としか考えられないの
である。


 以上、大石寺の胡散臭さを述べてきたが、大石寺に伝わるものが、何から何までマガイ
モノというわけではない。

 冒頭でも述べたとおり、大石寺は一応は由緒ある寺院であり、日蓮の真蹟遺文や日興に
よる古写本等も保有している。そうした物を「当山の寺宝」として誇るのなら、私にもま
だ理解できる。

 しかし、かつての創価学会が大石寺の宗教的荘厳を宣揚するために取り上げてきたのは、
食中毒の原因になる「御華水」や奇怪極まりない「御肉牙」だった。

 創価学会のようなインチキ宗教に引き寄せれられる手合いには、こうしたイカモノの方
が有難げに見えたということなのだろう。

 つくづく、関わり合いになりたくない連中である。


補足1 「御肉牙」についての寺伝

 創価学会がかつて出版していた『富士宗学要集』には、御肉牙について以下のような記
述がある。

> 一、日蓮聖人肉附の御歯一枚
> 又御生骨と称す、蓮祖の在日生歯を抜き血脈相承の証明と為て之レを日興に賜ひ事の
> 広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し代々附法の時之レ
> を譲り与ふ、一代に於て只一度代替蟲払の尅之を開封し奉り拝見に入れしむ常途之レ
> を開かず。
 (堀日亨編『富士宗学要集』第五巻)


補足2 質問会について

 戸田城聖は「質問会」と称して、学会員からの質疑応答に応じる機会をたびたび設けて
いた。

 病気についての質問も多く、「ガンや結核の手術を受けるように言われているが、どう
すべきか」といったものもあった。

 そうした質問に対して戸田は、医師でもないのに「手術の必要はない。信心で治る」と
いった無責任きわまりない回答をしていた。

 戸田の言葉を信じたために、寿命を縮めた者も少なくなかったのではないかと思われる。
 こうした点についても、いずれ当ブログで取り上げたい。

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2019年10月13日日曜日

日蓮正宗はカルトです

 前回、日蓮正宗の教義を示すために引用した『正しい宗教と信仰』(日蓮正宗布教研修
会編)には、「折伏弘教の手びき」という副題がつけられている。このことからも明らか
なように、同書は布教用のマニュアルとして執筆されている。

 その中には「日蓮正宗以外の宗教は、人間を苦悩の底につき落とす悪法」といった記述
もあり、さすが創価学会・顕正会の母体になっただけはあると感心させられる。

 また、他の宗教について「一見してインチキとわかるような宗教がたくさんあります」
と述べ、その例として「煙に触れるだけで無病息災になると説く宗教など」を挙げている
箇所もある。

 このようなマジナイには科学的な根拠がなく、効果など期待できないことについては、
私にも異論はない。だが、日蓮正宗にそのような批判をする資格があるのだろうか。

 当ブログでも以前ふれたが、日蓮正宗には「御秘符」と称するマジナイがある。これは
「法主の祈念が込められている」という食紅を飲むことで、病気が治る等のご利益がある
というものである。

 日蓮正宗に言わせると、煙に触れることで無病息災を祈ることは、「一見してインチキ」
だが、食紅を飲んで病気が治ると称するマジナイはそうではないらしい。

 多くの宗教は科学が未発達の前近代に起源を持っており、その中には現在では非科学的
と見られるような要素も少なからずある。しかしそれには致し方のない面もあり、特に害
のないものであれば、それらを「非科学的な迷信」としてあげつらう必要があるとは、少
なくとも私は思わない(積極的に宣揚しようとも思わないが)。

 だが日蓮正宗のように、自分たちがやっていることを棚に上げて、他の宗教を批判する
独善的な連中には強い嫌悪を感じる。

 そう遠くない過去に、「護符」と称して紙切れを飲むマジナイを大々的にやっていたに
もかかわらず、「他の宗教は非科学的」と言っている創価学会と日蓮正宗とは、似たり寄
ったりのカルトだと言えよう(そもそも両者は同根なのだから当然ではあるが)。

 日蓮正宗も、一応は伝統ある宗派の一つである。それにもかかわらず、他の伝統宗教と
比較して、首を傾げたくなる点が少なくない(創価学会や顕正会との関係を別にしてもそ
うである)。

 どの伝統宗派にも宗学というものがあり、宗祖の本来の教えがどのようなものだったか
を研究し、その伝統を守ろうとしている。

 例えば日蓮宗であれば、立正大学を設立して日蓮の思想について研究したり、その成果
として『昭和定本日蓮聖人遺文』等、学術的にも権威を認められている書籍を出版したり
している。

 しかし日蓮正宗は、『産湯相承事』をはじめとする後世に作られた偽書を核として「日
蓮本仏論」のような本来の日蓮の教えから乖離した教義を構築し、他の日蓮系宗派までも
邪教呼ばわりし続けているのである。

 日蓮正宗は他の伝統宗派よりも、いかがわしい新興宗教の方により近しい存在であると
言わざるを得ない。こういう胡散臭さが同類を招き寄せ、創価学会や顕正会を生む下地と
なったのではないかと思われる。


 以上、辛辣な見方を示しはしたものの、私は日蓮正宗が創価学会とまったく同じ程度に
危険で反社会的なカルトとまでは思わない(今のところは、ややマシだと思う)。

 創価学会員が「鳥居をくぐると地獄に堕ちる」と称して、神社に近づこうとしないこと
はよく知られた話であり、彼らの独善性を証明する事実でもある。

 学会員が神社を敵視する背景には、日蓮正宗から受け継いだ教義があるが、古くから日
蓮正宗の檀徒だった家系には、実際には神社に参拝する者も少なくないという。

 こうした事実から、日蓮正宗が独善的な傾向を強めたのは、創価学会から影響を受けた
結果ではないかとも考えられるのである。そのことを示す事例を以下に述べる。

 日本の伝統仏教には、地蔵信仰や観音信仰など、完全に土着化して習俗の一部となって
いる一面もある。

 現在の日蓮正宗の教義ではこうした信仰は「謗法」とされているが、日蓮正宗の信者が
地蔵信仰等について、昔から一貫して否定していたというわけではない。

 福島県会津坂下町にある日蓮正宗寺院・妙福寺には古くから地蔵堂があり、地元の人々
から篤く信仰されていた。

 ところが昭和28年(1953年)、妙福寺住職であった久保川法章氏が、この地蔵を謗法で
あるとして取り除こうとしたことから、信徒との間で争いが起こった。この際、創価学会
が久保川氏を支持したことから、問題が大きくなったという。

 この事件は、地蔵堂を妙福寺から切り離すことで決着したが、地蔵信仰を守ろうとした
古くからの妙福寺檀徒も、日蓮正宗から離れることになった。

 この出来事は『人間革命』第七巻にも描かれている(『人間革命』では、久保川法章氏
は「久川源章」として登場する)。

 『人間革命』によれば、久保川氏が昭和28年になって教義を厳格に解釈し、古くからの
地蔵信仰を敵視するようになったのは、創価学会員に影響されてのことのようである。

 このエピソードは「正しい信仰に目覚めた僧侶が、創価学会と協力して謗法に立ち向か
う美談」といった調子で『人間革命』には書かれていたが、現在市販されている聖教ワイ
ド文庫版『人間革命』からは削除されている。

 久保川氏が、後に創価学会に対して批判的な正信会に移ったことから、「美談」ではな
くなったということなのだろう。


 日蓮正宗の在家信者団体は「法華講」と呼ばれる。創価学会や顕正会も、かつては法華
講の一つだった。

 法華講の中でも、特に折伏を熱心に行っているのが妙観講である。元学会員も多く所属
していることから、創価学会と同様の体質を持っているらしい。

 昨今、創価学会を脱会して日蓮正宗の法華講員になる者も多いという。創価学会が弱体
化するのは結構なことだが、その結果として日蓮正宗のカルト的傾向が助長され、創価学
会と大差ない集団になってしまっては困りものである。

 実際、『正しい宗教と信仰』(日蓮正宗布教研修会編)は、その構成・内容が創価学会
がかつて出版していた『折伏教典』と類似しており、参照して執筆されたと見られる。

 創価学会は、カルトの害悪を日本社会に振りまいてきた。現在、彼らは衰退しつつある
が、その過程で別の問題を引き起こす可能性も否定できない。

 幸福の科学に入信した元学会員が、カルトの手口を伝授したのではないかという疑いも
あるのだ(「憧れの池田センセイ」参照)。

 こうしたことを踏まえて考えると、創価学会だけでなく、日蓮正宗や顕正会など、他の
カルトの動向もあわせて警戒する必要があるのかもしれない。 

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2019年10月6日日曜日

信心の血脈

 去る9月20日、日蓮正宗の第67世法主を務めた阿部日顕氏が逝去した(享年96歳)。

 ※ 誤解している方も少なくないが、日蓮正宗(総本山:富士大石寺)と日蓮宗(総本
  山:身延山久遠寺)は別の宗教法人であり、教義も大きく違う。日蓮正宗は、日蓮系
  宗派の中でも特に独善的な教義を持つ。創価学会はかつて日蓮正宗の傘下にあった。

 阿部氏は法主就任直後、創価学会に対して批判的な僧侶を大量に除名処分するなど、あ
たかも池田大作の傀儡であるかのごとく振舞っていたが、後に面従腹背し続ける池田に見
切りをつけ、破門処分を下した。

 それ以来、創価学会は、破門される前には「法主上人猊下」と呼んで表面的には敬って
いた阿部氏について、「先代から相承を受けていないニセ法主」と言いはじめ、「仏敵」
「天魔」などと罵り、撲滅唱題と称する呪詛まで行ってきた。

 年齢から言えば、阿部氏は大往生だったと言っていいと思われる。当然のことではある
が、多数の学会員による撲滅唱題は何の効き目もなかった。私は日蓮正宗から直接被害を
受けたわけではないので、一応は「ご冥福をお祈りします」と述べて置く。

 とはいうものの日蓮正宗が、創価学会・顕正会というカルトを2つも生み出したことは
否定できない事実である。両カルトが一般市民に迷惑をかけ続ける原因となっている独善
的な教義も、日蓮正宗に由来するものである。そこで今回は、日蓮正宗の教義、中でも彼
らの言う「信心の血脈」について検証したい。

 日蓮正宗は、「末法の御本仏」である日蓮の教えを正しく継承しているのは、自派のみ
だと主張し、それを以下のように説明している。


>  日蓮大聖人は入滅に先立って、門弟のなかから日興上人を選んで、本門戒壇の大御
> 本尊をはじめとする法門のすべてを相承し付属されました。
>  大聖人の精神と法義を固く守られた日興上人は、時あたかも地頭の不法によって謗
> 法の地になりつつあった身延の地を去る決意をされ、〈中略〉日本第一の名山富士山
> の麓に一切の重宝を捧持して弟子たちと共に移られ、そこに大石寺を建立されたので
> す。
>  その後、大聖人の仏法は第三祖日目上人、第四世日道上人と、一器の水を一器に移
> すように代々の法主上人によって受けつがれ厳護されて、現在御当代上人に正しく伝
> えられているのです。
 (日蓮正宗布教研修会編『正しい宗教と信仰』)

 ※ これはあくまでも日蓮正宗の主張であり、他の日蓮系宗派は引用の主張を認めては
  いない。


 日蓮正宗や創価学会では、日蓮以来の法統が相承を経て受け継がれていくことを「血脈」
という(あくまでも比喩であり、特定の家系のみが法主になれるというわけではない)。

 先に少しふれたが、現在の創価学会は、第67世法主を務めた阿部日顕氏は先代から相承
を受けていないので、信心の血脈は日蓮正宗から創価学会に移ったと主張している。

 そもそも、日蓮の教えが正統な仏法と呼べるかについては、これまでに論じてきたので
繰り返さない。また、阿部氏が相承を受けたか否かについても、今回は措く。

 日蓮正宗が主張する「血脈」は、果たしてどこまで史実の裏付けがあるのだろうか。
 結論から言って、極めて胡散臭いものだと言わざるを得ない。

 まず、日蓮正宗が第二祖と仰ぐ日興が、日蓮が指名した六老僧と呼ばれる高弟の一人だ
ったことは事実である。

 だが、日興だけが後継者として指名されたという主張に、他の日蓮系宗派が同意してい
るわけではない(日蓮宗は、同じく六老僧であった日向を第二祖としている)。
 
 また、日蓮正宗が教義上重視している古文書、『産湯相承事』『御義口伝』『百六箇抄』
『本因妙抄』は、後世に作られた偽書である(いずれも日蓮の口述を日興が筆記したもの
とされているが、日興直筆のものは存在しない)。

 日興が日蓮正宗総本山大石寺を開いたことは事実だが、現在の日蓮正宗の教義が日蓮・
日興に忠実だとは信じがたいのである(当然、創価学会・顕正会も同様である)。

 それに、日興が開山となった寺は大石寺だけではない。彼は北山本門寺(現在、日蓮宗
大本山)も開き、大石寺を日目に譲った後、晩年をそこで過ごした。「大石寺だけに日興
の法統が受け継がれている」という主張もまた信じがたい。

 日興には数多くの弟子がいたが、その一人、日尊は京都に要法寺(現在、日蓮本宗本山)
を開いた。

 実は江戸時代の大石寺法主には、要法寺から招かれた僧侶が少なくない。
 第18世日精、第19世日舜、第20世日典、第21世日忍、第22世日俊、第23世日啓はいずれ
も要法寺で出家し、その後、大石寺に移っている(日精を第17世とする説もある)。

 こうした経緯を見ると、要法寺に受け継がれた法統の支流が、大石寺にも伝わっている
と言った方がいいようにも思える。
 明治以降には、さらに異常な出来事が起こっている。

 先に引用したように、大石寺の法統は「一器の水を一器に移すように代々の法主上人に
よって受けつがれ」て来たものだという。要するに、先代法主が後継者を指名し、それを
相承の儀式によって宗内に周知してきたのである。これが守られてきたならば、後継争い
など生じようがないはずだ。

 だが実際には、次期法主を誰にするかについて争いが生じ、選挙で選ぶ事態が二度も起
こったという。

 大正15年(1926年)、第58世日柱を排斥する動きが宗内に起こり、後継者を選挙で選ぶ
ことになった。この時、堀日亨が選ばれている(堀氏は創価学会版『日蓮大聖人御書全集』
の編者ということになっている)。

 第59世日亨の後任を決める際にも混乱が起き、昭和3年(1928年)、またしても選挙に
より阿部日開――阿部日顕氏の実父――が第60世法主に選ばれたという。

 以上、述べてきたように、日蓮正宗の「信心の血脈」なるものは、相当にいい加減なも
のである。到底、唯一正統なものだとは言えない。

 そして、こうした胡散臭さを「地涌」などの怪文書であげつらってきたのが、他ならぬ
創価学会である。

 しかしそれは、天に向かって唾するが如き愚行ではないのか。
 日蓮正宗の法統がマガイモノだというなら、そこから派生した創価学会も当然にマガイ
モノであろう。

 阿部日顕氏に相承があろうとあるまいと、日蓮正宗は日蓮の仏法を正統に継承している
とは言えない。創価学会もまた然りである。

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