代の細井日達氏から相承を受けていないニセ法主である」と、主張してきた。
この相承についての疑惑を最初に公の場で述べたのは、創価学会の元顧問弁護士だった
山崎正友氏である。山崎氏は週刊文春に掲載された手記で、以下のように述べている。
> 日達上人は、事実上の“指名”なり、心づもりなりを周囲の人人に話されたことはあ
> るが、“御相伝”そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、だ
> れもいなかった。
(『週刊文春』1980年11月20日号)
> 阿部日顕は、昭和五十三年四月当時、「大僧都」の位だったから、相伝を受ける資
> 格は“緊急止むを得ざるとき”以外にない。当時の状況からみて、緊急止むを得ぬとは
> まったく云えないし、もし本当にゆずり受けたのなら、そのとき少なくとも能化にな
> っているか、宗規に従って「学頭職」についていなくてはならないのである。
> あらゆる状況――前後を通じて――から見て、阿部日顕は、相伝を受けているとは
> 考えられず、また、宗規に照らしても、違法である。
(『週刊文春』1981年2月12日号)
こうした見方をしていたのは山崎氏だけではなく、日蓮正宗の僧侶の中にも、阿部日顕
氏の相承を疑う者は少なくなかった。
当時の日蓮正宗内部には、創価学会が事実上、池田大作への個人崇拝を信仰の核とする
集団になっていること等について、教義からの逸脱であるとして憤りを隠さない僧侶も多
かった。
法主になる前から創価学会に対して宥和的だった阿部氏は、就任後、学会への批判を禁
止した。反学会派の僧侶たちがそれに抗議して大規模な集会を開くなどしたため、阿部氏
は罷免や降格などの強硬な対応をとった。
処分を受けた僧たちは、日蓮正宗から離脱して新たに正信会を結成。昭和56年(1981年)
1月には、阿部氏を相手どって、日蓮正宗管長としての地位不存在確認を求める訴訟を起
こした。
この裁判の第一審判決は、昭和58年(1983年)3月30日に出され、原告側(正信会)の訴
えが退けられる結果となった。翌日の聖教新聞は以下のように伝えている。
(『聖教新聞』昭和58年〔1983年〕3月31日付)
〈一部抜粋〉
> 御法主日顕上人猊下の血脈を否定する者(岩瀬正山ほか一七五人)が、日顕上人猊
> 下等を相手どって日蓮正宗の管長、代表役員の地位不存在確認の本訴と、それらの職
> 務執行停止を求める仮処分の裁判を起こしていたが、静岡地裁(高瀬秀雄裁判長)は
> 三十日、宗門側の主張を全面的に認め、岩瀬らの訴えをしりぞけた。
> 日顕上人猊下を訴えていたのは「正信会」を称する一派で、彼らは全員、日顕上人
> の血脈を否定し、異議異端の徒としてすでに擯斥処分(僧籍はく脱)に付されている。
(中略)
> 当然、予測された判決とはいえ、信教の自由を守る基本精神のうえからも、高く評
> 価されてよい。
裁判所が正信会の主張を退けた理由は、「宗教上の教義ないし信仰の内容にかかわる事
項についてまで裁判所の審判権が及ぶものではない」との判断による。
つまり、教義上の問題について判断するのは裁判所の役割ではない、ということである。
この裁判はその後、最高裁まで争われたが、そこでも一審と同じ理由で正信会側が敗訴
している(この事件は「審判権の限界」に関する代表的な判例の一つとされている)。
この件は、創価学会の幹部にも感銘を与えたものと見え、副会長だった野崎勲氏がサン
デー毎日に寄港した「学会批判者たちの終焉」で論評を加えている。
> この裁判は、山崎が昭和五十五年十一月に「週刊文春」の手記で、日蓮正宗の現法
> 主である日顕上人猊下の血脈相承についてうんぬんしたのをキッカケとして、山崎を
> “軍師”と仰ぐ元日蓮正宗僧侶グループ「正信会」が現法主を“身分詐称”呼ばわりして
> 五十六年一月に提訴したものである。しかし、この血脈論議の奇妙なところは、日顕
> 上人が先代日達上人の後を継がれて法主の座につかれた五十四年の七月時点はもちろ
> んのこと、それから一年すぎても当の「正信会」はおろか、山崎自身も含め、宗内の
> 何人も何らの異議も唱えていなかったということである。
(中略)
> もとより、こうしたおかしな経過に、明らかなように、この訴訟自体、到底まとも
> なものでないことはいうまでもないが、本年三月三十日、静岡地裁は、宗門側の主張
> を全面的に認め、「正信会」側訴えを却下する判決を言い渡したのである。
(『サンデー毎日』1983年5月29日号)
野崎氏は京大卒の俊英として、若くして池田センセイから重用された逸材というだけあ
って、その主張は一応もっともなもののように思える。少なくとも私ごときには、反論す
るスキを見つけられそうにない……。
しかし、この野崎副会長のご高見に対し、真っ向から異議を申し立てる者が、時を隔て
ること十数年後に現われたのである。何という身の程知らずであろうか。
(『創価新報』平成11年〔1999年〕6月2日付)
創価学会は平成3年(1991年)に日蓮正宗から破門されて以来、その決定を下した阿部
日顕氏を悪罵し続けていたが、彼の法主としての地位そのものに疑問を呈する主張をした
のは、この創価新報の記事が初めてだった。
※ 創価新報は平成11年5月5日付で「日顕10の大罪」と題した特集記事を掲載し、阿部
氏を「仏法史上、最大の破壊魔」「人類の敵」などと中傷しているが、その際に挙げ
られた10の罪過の中に、相承に関するものはなかった。
これ以降、創価学会による阿部日顕氏への罵詈雑言に、新たに「ニセ法主」が加わった
のである。
(『聖教新聞』平成11年〔1999年〕8月10日付)
彼ら自身が、過去に「阿部氏が法主に就任した直後に異議を唱えなかった者が、何年も
経ってから疑いの声を上げるのはおかしい」と主張していたことを忘れたのであろうか。
私には「一目で分かる偽法主を、『御法主日顕上人猊下』と呼び奉っていた新聞がある
らしい(爆笑)」としか、言いようがない。
学会員に言わせると「たとえ何があろうと、創価学会は絶対に正しい」らしいのだが、
実際に彼らが主張してきたことの多くは、まったく一貫性がなく、その時々で都合のいい
ことを言い張っているだけにしか見えない。
創価学会の主張のほとんどは、何の正当性もない世迷言に過ぎないのだ。阿部日顕氏の
相承についての彼らの言い分の変遷は、それを証明する好例である。
蛇足
阿部日顕氏が実際に相承を受けたか否かについては、私には判断のしようがない。
創価学会は「相承はなかった」と言い張っているし、日蓮正宗は「相承はあった」と言
い続けている。部外者にとっては、不毛な水かけ論でしかない。
当ブログで述べてきたように、私は日蓮の教えが「唯一の正統な仏法」だとは考えてい
ないし、一歩譲って日蓮の教えに何らかの意義があると認めたとしても、日蓮正宗や創価
学会がその正統な継承者だとは言えない。
繰返しになるが、阿部日顕氏に相承があろうとあるまいと、創価学会や日蓮正宗がカル
トであることに何に変わりもないのである。
補足 山崎正友氏について
阿部日顕氏の相承に関する疑惑について最初に口火を切った山崎正友氏は、後に前言を
翻して阿部氏を正統な法主と認め、日蓮正宗に帰服した。
山崎氏が法主就任直後の阿部氏を敵視したのは、阿部氏が創価学会に対して過度に肩入
れしたためだと思われる。
当時の山崎氏は、既に創価学会と激しく対立していたため、池田大作の傀儡のように振
る舞う阿部氏も許せなかったのであろう。
しかし、後年、池田に愛想をつかした阿部氏が創価学会を破門したことを見て、評価を
改めた。山崎氏は創価学会の破門を知った感慨を、以下のように述べている。
> 平成三年暮、池田大作が日蓮正宗から破門されたニュースが新聞に掲載され、テレ
> ビで放映された。週刊誌の報道が続いた。
(中略)
> 創価学会にかかわってから、三十五年になる。私の人生の働きざかりのすべての期
> 間である。初めの二十年はひたすら池田大作に忠節をつくし、創価学会を大きくし守
> ることに尽くした。あとの十五年は、池田大作の野望を阻止し、創価学会を倒すこと
> に全力を傾注した。創価学会にふりまわされた人生だった。それとも、いよいよお別
> れである。三十五年ぶりの、心の解放感だった。それにしても日蓮正宗の首脳は、よ
> くぞ決断されたものだと思った。
(山崎正友著『平成獄中見聞録』)
※ 当時、山崎氏は創価学会に対しての恐喝事件で有罪判決を受け、黒羽刑務所に服役
中だった。有罪になったことについて山崎氏は、「創価学会側の集団偽証のため」と
主張していた。
山崎氏が誠実な信仰者であったとは言い難いのも事実である。彼が阿部氏に前非を詫び
て関係修復を図ったのは、創価学会との敵対関係が抜き差しならないものになっていたた
め、日蓮正宗とも敵対し続けるのは賢明ではないという打算もあったのではないかと思わ
れる。
信仰を人生における最重要事項とみなす人々の中には、山崎氏の変節を許せない方もい
るのだろう。創価学会に批判的な方の中にも、山崎氏には辛口の評価を下す向きも少なく
ない。
しかし、私から見れば山崎氏は、創価学会と池田大作の反社会性を暴いた最大の功労者
の一人である。山崎氏の功罪についても、折を見て論じたいと思う。