今回から数回にわたって、創価学会員が日常的に行っている各種の学会活動について論
じる。
学会活動の中でもっとも多いのは、座談会をはじめとする会合である。それらの概要は
以下のようなものである。
・座談会
月に一回開催され、学会員であれば、原則として出席すべきものとされている。かつて
は「ブロック」ごとに開催されていたが、現在は「地区」を単位としている。
※ ブロックとは、創価学会の組織の最小単位、十数世帯で構成される。数ブロックを
束ねた単位が地区である。
会場は地域の学会員の自宅で、比較的広いところを借りることが多い。
座談会の内容は、地域や時期によって微妙な違いがあるが、概ね次のようなもの。
> 座談会の内容は各地域によって違うが、平均的には、まず、夜の勤行から開始され
> る。その後、中心幹部の司会進行で、池田大作が写っている海外活動のビデオ鑑賞な
> ど。また体験発表として会員が立ち上がり、布教、聖教新聞の啓蒙活動の成績を発表
> したり、最近体験した本人や家族の喜びなどを報告。また時節に応じてF票を何票取
> るとか、財務にいくら納金するとか、聖教新聞を何部啓蒙するとかなど抱負を発表す
> る。最後に座談会に参加している幹部による指導で終わる。座談会終了後は、会場の
> 主催者によってはお茶、お茶菓子を出し、その間、聖教新聞代金の集金、民音券の支
> 払い、この後の行事予定などの話し合い。
(創価学会問題研究会 著『創価学会婦人部』)
※ 冒頭の勤行は現在では省略され、題目三唱で済ますことが多いらしい。
・唱題会
地域の学会員が集まって「南無妙法蓮華経」という題目を唱える。
・勤行会
同じく学会員が集まり、法華経の方便品・寿量品の読誦を行う。
・勉強会(御書講義など)
創価学会版『日蓮大聖人御書全集』や『人間革命』『新・人間革命』を参照して、教義
の勉強を行う。実際には、創価学会の月刊誌『大白蓮華』等に掲載されている短めの引用
と、解説を読むだけのことが多いらしい。
・本部幹部会の中継
創価学会の本部幹部会録画を、地域の会館に集まって視聴する。池田大作が健在だった
頃は、池田の講演が目玉だったという。
・協議会等の各種会議
創価学会の活動家になると、活動者会、協議会等の会議にも出席しなければならない。
こうした会議で、聖教新聞の拡販活動や選挙でのF取りなどの目標が話し合われる。
仕事を持っている人も多いため、協議会等は平日の夜間に開かれるのが通例だという。
各種の会合の他に、以下のような活動も日常的に行われている。
・新聞啓蒙
聖教新聞の拡販活動のこと。配達であれば小遣い程度の報酬が出るが、新聞啓蒙は無報
酬である。地域ごとにノルマを課されるが、達成できず自腹で複数取る者も多い。
・家庭訪問
創価学会員であるにもかかわらず、座談会等の学会活動にいっさい顔を出さない者――
未活・非活と呼ばれる――の自宅を訪問し、活動に参加するよう促す。
上記だけでなく、折伏の成果を上げることも求められるし、選挙の時期にはF取りと称
する選挙活動にも取り組まなければならない。
また、担当者に選ばれれば、創価学会の外郭団体・民主音楽協会のコンサートチケット
の販売・集金や、聖教新聞の配達も行う必要がある。
創価学会の活動家は、毎日のように実施される学会活動に無報酬で貢献している。
仕事を持っている人は、こうした活動すべてに参加することは困難であるため、必然的
に主要な担い手は、専業主婦の学会員ということになる。
創価学会の婦人部員のほとんどは池田大作に心酔しており、「先生と呼吸を合わせて」
信心することで功徳(ご利益)が得られ、幸せになれると信じて、家事や育児をおざなり
にしてでも学会活動に打ち込む者までいる(本末転倒のようだが……)。
あまりにも繁忙な一連の学会活動への献身は、その結果として、離婚や子どもが非行に
走るなどの家庭崩壊を招くことも少なくないという。
幸福を願う学会員たちの家庭を犠牲にしてでも、様々な行事に恒常的に駆り立てる本当
の理由は、物事を落ち着いて考える時間を奪うことによって、創価学会への疑問を持たせ
ないようにすることにある。元副会長の福島源次郎氏は、以下のように述べている。
> 現在の学会活動の内容を分析してみますと、折伏化他や信心練磨の仏道修行に直接
> 関わるものがまことに少いことに、改めて驚きます。その大部分は、学会組織の維持・
> 存続(財務も選挙もその一環)と名誉会長の崇拝、「師弟の道」の徹底のための活動
> といってよいようです。これらをすべて広宣流布のためと称してやらせています。
> 名誉会長は私たち首脳にこう教えてきました。
> 「組織は常に何かの刺激を与え続けていくことが大切だ。これをやらなかったら、
> 必ずよどんでくる。これは組織運営のホシだから、私の遺言のつもりでよく憶えてお
> け」
> 「会員を絶対に立ち止まらせてはならぬ。しばらくの休養ならよい。立ち止まれば
> 必ず上を批判してくるから危険だ。忙しく働かせば批判なんか吹き飛ぶ。又怠け癖が
> できる。一度その癖ができたら、元に戻すのに倍以上の力がいる」
> 学会の過密スケジュール、次々と打ち出される行事や会合やイベントは、この名誉
> 会長の考え方に発するのは、いうまでもありません。
> まじめな会員は、「先生に呼吸を合わせよう」を信条に、文句をいわずに、ひたむ
> きに走り続けています。それをやりきることが宿命転換と福運につながることを信じ
> て、懸命にがんばっています。特に婦人部の第一線幹部がもっともひどい状態です。
> こうして主婦の家事・育児・子供の教育の時間が奪われてきました。母子の対話や
> 家族の団らんの時間も少く、どれほど健全な家庭生活が犠牲になってきたことでしょ
> うか。職業人の多くは、僅かの時間の中で過密スケジュールをこなすために、慢性的
> 睡眠不足と過労に苦しんでいます。
> 小中校の問題児童や少年に、必ずといってよいほど学会幹部の子女が含まれていま
> す。教育部の心ある教師達が、教育相談室をボランティアで始めたのも、このことを
> 憂えてのことでした。活動に明け暮れる婦人部幹部の夫が、なかなか信心に励まない
> のも、同じ理由です。
> 全国活動家幹部何十万の家庭の周りには、何百万もの人々が関係しています。彼等
> がこの幹部の生活や家庭の姿を長年みていて、どういう思いを抱くでしょうか。「仏
> 法はすばらしいようだが、あなたの姿を見ていると学会に入るのはゴメンだ」と拒否
> 反応するのは当り前でしょう。こういう人々がじつに多いのです。
> この現象は、もう二十年前から会内のいろいろの人から指摘され、本部も度々この
> 解決を試みたのですが(例えば婦人部の活動を朝は厳禁、昼間か夜のいずれかにして、
> 通しの活動はしない等)、すぐに有名無実になってしまいました。どうしても定着し
> ないのです。これに逆行する指導や新しい指示を名誉会長がするからです。名誉会長
> の話では、首脳も黙って容認する他はないのでした。
> この激忙の活動の無理がたたり、商売をダメにした自営業の人、医者にかかるのが
> 遅れて癒るべき病気も手遅れとなり、寿命を縮めた人が、私の知る範囲でも、この数
> 年何人もおります。私が指導しても、上の幹部の意向や組織全体の雰囲気に逆えず、
> ダメなのです。こうなると犯罪に近いものがあります。
(福島源次郎著『蘇生への選択』)
『蘇生への選択』が出版されたのは、平成2年(1990年)のことである。
元学会員による批判ブログ等を見る限り、30年近くが経過した現在でも、福島氏の警鐘
は妥当のようである。
創価学会は、信仰の指針として「一家和楽の信心」を掲げているが、実態に即するなら
ば、「家庭崩壊の狂信」になっているとしか言いようがない。
創価学会は明らかに普通の宗教ではない。ありもしない「功徳」をエサに、金銭だけで
なく時間や労働力まで収奪し、家庭を破壊するカルトなのである。
2019年5月26日日曜日
2019年5月19日日曜日
狂信者の心理
当ブログをご覧の中には、過去に創価学会員から折伏を受け、彼らに何を言っても話が
通じず、辟易させられた経験がある方もいらっしゃることと思う。
学会員は他の宗教をすべて否定するが、創価学会だけは正しいと言える理由について、
まともな説明をすることはない。
私は、これまでに『人間革命』等の創価学会の出版物に、それなりの数、目を通してき
たが、それらの中にも創価学会の正当性について、外部の人間を納得させられる根拠を示
しているものはなかった。
一般的には、何らかの主義主張を訴える人間は、自説の根拠を提示することで他人を説
得しようとするものである。
例えば、地球温暖化対策の必要性を訴える者は、二酸化炭素等の温室効果ガスの増加が
地球の平均気温を上昇させ、それに起因する気候変動が人類の存続に対する脅威となりか
ねない等の説明をするであろう。
それに対し温暖化対策の必要性に懐疑的な者は、前提となっている温室効果ガスや気候
メカニズムについての科学的データの妥当性や、対策に要するコストの費用対効果を論じ
ればよい。
客観的に検証可能な論拠を双方が提示することで、どちらがより妥当かを合理的に判断
することができるし、結論が出なかったとしても、双方の主張がより整理され、洗練され
たものとなるなど、実りある成果が得られるはずである。
しかし、創価学会員を含めたカルト信者は、自分たちと異なる信仰を憎悪し否定するこ
とには熱心だが、自説の正当性を論理的に提示しないので、まともな対話が成り立たたず、
彼らと議論しても徒労感しか残らない。
今回は、こうした狂信者の心理について、20世紀のアメリカを代表する知識人の一人、
エリック・ホッファーの『大衆運動』(高根正昭 訳 原題:THE TRUE BELIEVER)に基
づいて論じたい。
『大衆運動』は、宗教改革、民族主義運動、共産主義革命、ナチズム等の社会に変革を
もたらした社会運動をテーマとしており、中でもそれらの運動の推進力であった狂信的な
信奉者の分析に焦点が当てられている。
現在の創価学会は体制の補完勢力に堕しているように見えるが、勢力の拡大期であった
昭和20年代後半から30年代にかけては、「国立戒壇」の実現など、現行憲法の下では実現
不可能な目標を掲げていた。
ホッファーは、体制の変革を目指す大衆運動に身を投じるのは、現状への欲求不満を持
つ人々だとし、次のように述べている。
> 欲求不満をもつ者は、みずからの欠点によって打ちひしがれ、自分の失敗を現存す
> る束縛のせいにする。ほんとうのことをいえば、彼らの心のいちばん奥底にある願い
> は、「万人のための自由」に終止符を打つことなのである。彼らは、自由競争と、自
> 由社会内部の個人がまぬがれることのできない無慈悲な試験とを除き去ってしまいた
> いのである。
(『大衆運動』P-38)
> 大衆が切望する自由は、自己表現や自己能力達成の自由ではなくて、自主的存在と
> いう堪え難い重荷からの自由なのである。彼らは、「自由な選択というおそろしい重
> 荷」から自由になることを、そして無力な自己を自覚し、傷つけられた結果への非難
> をひき受けるという骨の折れる責任から自由になることを求めている。彼らは、良心
> の自由ではなくて信仰を――つまり盲目的、権威主義的な信仰を――求めている。
(同書 P-160)
創価学会の拡大期にその信仰に身を投じたのは、新規に都市住民となった中でも、学歴
のない人々だった。
高等教育を受けていないために、専門的な知識や技能を身につけておらず、自由競争の
下で社会的地位を上昇させられる望みの薄い人々にとって、創価学会の独善的で権威主義
的な教義は魅力的だったのである。
「末法の御本仏・日蓮大聖人」という至高の存在の前では、現実社会の様々な競争や試
練も、その結果としての優勝劣敗も、等しく無意味なものとなる。
いや、自由競争の勝者といえども、唯一絶対の信仰を受け入れないならば、来世で地獄
に落ちて当然なのだ。みじめな現実から逃避したい者にとって、この幻想は蠱惑的だった。
当然ながらその教義は、人生のすべてを賭ける価値がある、絶対に正しいものだと信じ
られるものでなければならない。
ホッファーは、そのような教義の条件は「理解されないこと」だと述べている。
> それゆえ、教義が効果的であるためには、明らかに、それは理解されてしまっては
> 困るのであり、信じ込まれなければならない。われわれは、まだ理解していないこと
> にだけ絶対的な確信をもつことができるのである。教義は、理解されると、その力を
> 奪われてしまう。いちどわれわれが一つの事を理解すると、それは、まるでわれわれ
> の内部から生じたかのようになる。そして、自己を捨て、自己を犠牲にすることを要
> 求されている人びとが、その他ならない自己の内部で生じた何物かに、永遠の確実性
> があるなどと考えることのできないのは明らかである。彼らが、ある事物を完全に理
> 解するということは、彼らにとって、かつては妥当であり確実であったものが、傷つ
> けられるということなのである。
(同書 P-91)
ある考えを理解することは、その考えが自らの着想したものと同様に内面に刻まれ、い
つでも引き出せるようになることを意味する。
自分自身の意志と能力で、道を切り開き、競争を勝ち抜くことを断念した者にとっては、
完全に理解され「自分の考え」と同様になってしまった思想は、自己がそうであるように、
人生を賭ける価値などない、頼りないものでしかないのだ。
普通の人は、自分が正しく理解できていると感じるからこそ、信念に自信を持つものだ
が、狂信者が求めるのは、自分には理解できないが、それ故にこそ「絶対に正しい」と感
じられる教義なのである。
だからこそ、創価学会員をはじめとするカルト信者は、「自分たちが信じるものは絶対
に正しい」と主張するにもかかわらず、その理由をきちんと説明できないのだ。
現在の創価学会では、第一世代の多くは世を去るか高齢化し、二世三世が主流となって
いる。二世三世の中には、高度な教育を受け、社会的な成功を収めているにもかかわらず、
狂信的な信仰を受け継いでいる者もいる。
熱心な創価学会の家庭で育てられた者は、幼少時から何ごとにつけて「御本尊のおかげ」
と教えられるために、自己の才覚や努力で成し遂げたことであっても、それを自分の実力
と思えなくなってしまうのである。
マインドコントロールにより、心の奥底に自己否定が刻まれた者は、それなりの知性が
あっても、狂信に身を委ねざるを得なくなるのだ。カルトの悪弊が、世代を超えて伝播し
てゆくのである。
先に引用したように、ホッファーは「ある事物を完全に理解するということは、彼らに
とって、かつては妥当であり確実であったものが、傷つけられるということ」だと指摘し
ている。
学会員がマインドコントロールから解放されるためにも、創価学会について、自分で考
えることが効果的なはずである。
当ブログでも指摘してきたように、『人間革命』や『折伏教典』をその内容を検証しな
がら読めば、創価学会がおかしいことはすぐに分かる。
本稿をお読みの学会員がいらっしゃれば異論が出そうだが、そんな方には、折伏や仏法
対話をする際に、相手の宗教を否定するだけでなく、「創価学会は唯一絶対に正しい」と
誰もが納得せざるを得ない根拠を、示せるようになっていただきたいものである。
通じず、辟易させられた経験がある方もいらっしゃることと思う。
学会員は他の宗教をすべて否定するが、創価学会だけは正しいと言える理由について、
まともな説明をすることはない。
私は、これまでに『人間革命』等の創価学会の出版物に、それなりの数、目を通してき
たが、それらの中にも創価学会の正当性について、外部の人間を納得させられる根拠を示
しているものはなかった。
一般的には、何らかの主義主張を訴える人間は、自説の根拠を提示することで他人を説
得しようとするものである。
例えば、地球温暖化対策の必要性を訴える者は、二酸化炭素等の温室効果ガスの増加が
地球の平均気温を上昇させ、それに起因する気候変動が人類の存続に対する脅威となりか
ねない等の説明をするであろう。
それに対し温暖化対策の必要性に懐疑的な者は、前提となっている温室効果ガスや気候
メカニズムについての科学的データの妥当性や、対策に要するコストの費用対効果を論じ
ればよい。
客観的に検証可能な論拠を双方が提示することで、どちらがより妥当かを合理的に判断
することができるし、結論が出なかったとしても、双方の主張がより整理され、洗練され
たものとなるなど、実りある成果が得られるはずである。
しかし、創価学会員を含めたカルト信者は、自分たちと異なる信仰を憎悪し否定するこ
とには熱心だが、自説の正当性を論理的に提示しないので、まともな対話が成り立たたず、
彼らと議論しても徒労感しか残らない。
今回は、こうした狂信者の心理について、20世紀のアメリカを代表する知識人の一人、
エリック・ホッファーの『大衆運動』(高根正昭 訳 原題:THE TRUE BELIEVER)に基
づいて論じたい。
『大衆運動』は、宗教改革、民族主義運動、共産主義革命、ナチズム等の社会に変革を
もたらした社会運動をテーマとしており、中でもそれらの運動の推進力であった狂信的な
信奉者の分析に焦点が当てられている。
現在の創価学会は体制の補完勢力に堕しているように見えるが、勢力の拡大期であった
昭和20年代後半から30年代にかけては、「国立戒壇」の実現など、現行憲法の下では実現
不可能な目標を掲げていた。
ホッファーは、体制の変革を目指す大衆運動に身を投じるのは、現状への欲求不満を持
つ人々だとし、次のように述べている。
> 欲求不満をもつ者は、みずからの欠点によって打ちひしがれ、自分の失敗を現存す
> る束縛のせいにする。ほんとうのことをいえば、彼らの心のいちばん奥底にある願い
> は、「万人のための自由」に終止符を打つことなのである。彼らは、自由競争と、自
> 由社会内部の個人がまぬがれることのできない無慈悲な試験とを除き去ってしまいた
> いのである。
(『大衆運動』P-38)
> 大衆が切望する自由は、自己表現や自己能力達成の自由ではなくて、自主的存在と
> いう堪え難い重荷からの自由なのである。彼らは、「自由な選択というおそろしい重
> 荷」から自由になることを、そして無力な自己を自覚し、傷つけられた結果への非難
> をひき受けるという骨の折れる責任から自由になることを求めている。彼らは、良心
> の自由ではなくて信仰を――つまり盲目的、権威主義的な信仰を――求めている。
(同書 P-160)
創価学会の拡大期にその信仰に身を投じたのは、新規に都市住民となった中でも、学歴
のない人々だった。
高等教育を受けていないために、専門的な知識や技能を身につけておらず、自由競争の
下で社会的地位を上昇させられる望みの薄い人々にとって、創価学会の独善的で権威主義
的な教義は魅力的だったのである。
「末法の御本仏・日蓮大聖人」という至高の存在の前では、現実社会の様々な競争や試
練も、その結果としての優勝劣敗も、等しく無意味なものとなる。
いや、自由競争の勝者といえども、唯一絶対の信仰を受け入れないならば、来世で地獄
に落ちて当然なのだ。みじめな現実から逃避したい者にとって、この幻想は蠱惑的だった。
当然ながらその教義は、人生のすべてを賭ける価値がある、絶対に正しいものだと信じ
られるものでなければならない。
ホッファーは、そのような教義の条件は「理解されないこと」だと述べている。
> それゆえ、教義が効果的であるためには、明らかに、それは理解されてしまっては
> 困るのであり、信じ込まれなければならない。われわれは、まだ理解していないこと
> にだけ絶対的な確信をもつことができるのである。教義は、理解されると、その力を
> 奪われてしまう。いちどわれわれが一つの事を理解すると、それは、まるでわれわれ
> の内部から生じたかのようになる。そして、自己を捨て、自己を犠牲にすることを要
> 求されている人びとが、その他ならない自己の内部で生じた何物かに、永遠の確実性
> があるなどと考えることのできないのは明らかである。彼らが、ある事物を完全に理
> 解するということは、彼らにとって、かつては妥当であり確実であったものが、傷つ
> けられるということなのである。
(同書 P-91)
ある考えを理解することは、その考えが自らの着想したものと同様に内面に刻まれ、い
つでも引き出せるようになることを意味する。
自分自身の意志と能力で、道を切り開き、競争を勝ち抜くことを断念した者にとっては、
完全に理解され「自分の考え」と同様になってしまった思想は、自己がそうであるように、
人生を賭ける価値などない、頼りないものでしかないのだ。
普通の人は、自分が正しく理解できていると感じるからこそ、信念に自信を持つものだ
が、狂信者が求めるのは、自分には理解できないが、それ故にこそ「絶対に正しい」と感
じられる教義なのである。
だからこそ、創価学会員をはじめとするカルト信者は、「自分たちが信じるものは絶対
に正しい」と主張するにもかかわらず、その理由をきちんと説明できないのだ。
現在の創価学会では、第一世代の多くは世を去るか高齢化し、二世三世が主流となって
いる。二世三世の中には、高度な教育を受け、社会的な成功を収めているにもかかわらず、
狂信的な信仰を受け継いでいる者もいる。
熱心な創価学会の家庭で育てられた者は、幼少時から何ごとにつけて「御本尊のおかげ」
と教えられるために、自己の才覚や努力で成し遂げたことであっても、それを自分の実力
と思えなくなってしまうのである。
マインドコントロールにより、心の奥底に自己否定が刻まれた者は、それなりの知性が
あっても、狂信に身を委ねざるを得なくなるのだ。カルトの悪弊が、世代を超えて伝播し
てゆくのである。
先に引用したように、ホッファーは「ある事物を完全に理解するということは、彼らに
とって、かつては妥当であり確実であったものが、傷つけられるということ」だと指摘し
ている。
学会員がマインドコントロールから解放されるためにも、創価学会について、自分で考
えることが効果的なはずである。
当ブログでも指摘してきたように、『人間革命』や『折伏教典』をその内容を検証しな
がら読めば、創価学会がおかしいことはすぐに分かる。
本稿をお読みの学会員がいらっしゃれば異論が出そうだが、そんな方には、折伏や仏法
対話をする際に、相手の宗教を否定するだけでなく、「創価学会は唯一絶対に正しい」と
誰もが納得せざるを得ない根拠を、示せるようになっていただきたいものである。
2019年5月12日日曜日
功徳とバチ
創価学会員から何度もしつこい投票依頼を受け、迷惑しているのでやめて欲しい旨を伝
えたのに、それでも同じことを繰り返され、困ったことがある人は現在でも多い。
直接に学会員から被害を受けた経験がなくても、インターネットや書籍で創価学会が貧
しい会員からも、財務などの金集めを行っていることを知り、その理不尽さに義憤をおぼ
えた方もいらっしゃるはずである。
創価学会員が非常識な行動を取ったり、道義にもとる振る舞いをしたりする理由は何だ
ろうか。
結論から述べると、カルト信者はマインドコントロールを受けているため、常識的な判
断力が麻痺してしまっているのである。
創価学会員について言えば、「正しい信仰――すなわち創価学会――は功徳(ご利益)
をもたらし、誤った信仰をしたり信心をサボったりすればバチがある」という思い込みが、
彼らの行動を制約している。以下、具体例を挙げて検証する。
創価学会は、公明党議員の口利きで、学会員による生活保護の申請がとおり易いように
図らっている一方で、生活保護を受給している者からも財務やマイ聖教で収奪してきた。
当然のことながら、そうした実態はマスコミ等から強い批判を受けた(「公明党による
口利きの代価」参照)。
さすがの創価学会も行動を改め、近年は「生活保護の受給者には財務をさせないように」
との指導を本部がするようになったという。
だが、この指導は実際には形骸化しているとの告発もある。
かつて婦人部の活動家だったというMeさんのブログ「創価と引寄せと私」に、彼女が
学会活動をやめるきっかけとなった出来事が記されている(脱会したわけではないとのこ
と)。
それによると、広布部員(財務をする人)を増やすようにとの目標を、上層部から示さ
れた際、ノルマを達成するために幹部が働きかけて、生活保護を受給している学会員にも
財務の申し込みをさせた。
この出来事にMeさんは衝撃を受け、非活になることを決意したそうである。
創価学会は、良識ある人間にとって耐えがたい組織なのだ。
「生活保護を受けている人には財務をさせるな」という指示が本部からあったにもかか
わらず、地域レベルの幹部がそれを守らなかったのは、なぜだろうか。
無理をしなければ達成できないようなノルマを提示した上層部にも問題があると言える
が、より根本的なのは、多くの学会員、特に幹部たちが、「生活が苦しい人にお金を出さ
せるのは気の毒だ」という、常識的な判断が出来なくなっていることにある。
学会員は「創価学会のためにお金を出せば功徳になり、福運がつく」と、本気で信じて
いる。だから「生活保護受給者はお金に困っているかもしれないけれど、財務をすれば功
徳があり、そういう境涯から抜け出せるはず」と考える。良心の呵責など感じないのだ。
もし、財務をした人に具体的なご利益がなくても、それは「当人の信心が足りないから」
であり、財務をさせた幹部が責任を感じることはない。
常識的・道徳的な思考よりも、功徳やバチに基づいた判断の方が、創価学会では尊重さ
れるのである(信仰の論理よりも常識を優先させる者は、「世法に流されている」という
批判を受け、信仰心が薄い人とみなされる)。
創価学会はその創成期から、聖教新聞や幹部の指導等を通じて「功徳とバチ」を優先す
る考え方を、学会員たちに刷り込んできた。一例を示す。
このように創価学会の出版物では、「財務をすれば功徳がある」と強調されていたが、
当然ながら外部の観察者はより冷静な見方をしていた。
『宗教と信仰の心理学』(小口偉一 編著 初版:昭和31年〔1956年〕)には、当時、世
間を騒がせていた新興宗教の幹部や一般信者に対する、宗教学者による聞き取り調査がま
とめられている。この本には、創価学会員の証言も収録されている。
証言しているのは、生活費を稼ぐために日雇い労働者をしているという43歳の未亡人で、
十分な教育を受けておらず、決して豊かとは言えない人物である。
創価学会は、こうした信者にも金を出させていた。以下、引用。
(前略)
> 昨年も寄付いってきて五〇円だしましたが、今度もまたあったんです。出しません
> でした。女の細腕一つではできませんからねえ。昨年はお山へ行くと泊るところを建
> てるというので、二〇〇円いってきたんです。五〇円でかんにんしてもらったんです。
> 最初から五〇円といってくれればいいですね。困る人ほど多く出して貰わねばならな
> いとその時いわれたんです。その時不満を感じるとバチが当るというんですねえ。怨
> 羨をするとバチがあたるといいます。テキメンに来ることがあります。弁当箱忘れて
> なくしたり。
(中略)
> 本買って読まなきゃいかんといわれるんですけどねえ。買えないし、つかれて読め
> ないし、わたしどうしたらよいかわからないんです。
この女性の証言は以上である。
「困る人ほど多く出して貰わねばならない」という指導には、「創価学会のために多く
の金を出せば、それが功徳になって宿命転換できる(今の貧しい境涯から抜け出せる)」
という含意があったと考えられる。
『宗教と信仰の心理学』の著者は、証言に続けて次のような感想を述べている。
> 教団の幹部にこのような実状を話すと、末端の行きすぎであると答えられるだろう
> が、バチにおののく気の毒な女性が第三者の胸をうつにちがいない。案外こういった
> 信仰によって教団の支えられている点が大きいのではないだろうか。創価学会の会長
> はいっている「もうからない御利益のない信仰なんかやめたらよい。もうかるから、
> 病気が治るから信仰するんですよ」「バチはテキメンですね」と。
創価学会は、誰の人生にも起こり得る様々な出来事を「功徳とバチ」で説明し、信者に
「創価学会の信仰だけが功徳をもたらす」と吹き込んできた。
「功徳とバチ」の実体は、たいていの場合、ただの思い込みである。この一円の元手も
かからないアメとムチにより、創価学会は信者を支配してきた(時として、人為的な嫌が
らせを「仏罰」だと言い張ることもあるが……)。
創価学会員は強引な勧誘等の迷惑行為を、組織を挙げて行っているが、常識に基づいて
そのようなことをやめるように説得しても、冒頭でも述べたとおり、たいていの場合、功
を奏しない。
日常の些細なことまで「功徳とバチ」のせいにする学会員にとって、学会員でない者が
困ったり苦しんだりすることは、「正しい信仰をしていないことによるバチ」であり、自
らの信仰の正しさを実証することとして目に映る。
また、他人の苦境につけ込んで勧誘したり、聖教新聞を何部も取らせたり、財務で金を
出させたりすることは、「功徳を積ませて宿命転換させ、救ってあげるため」なのである。
学会員に常識を取り戻させ、迷惑行為をやめさせるには、まずマインドコントロールを
解くことが必要なのだ。
当ブログを閲覧されている方の中にも、創価学会に疑問を持った学会員もいらっしゃる
ことと思う。そのような方には、インターネットや書籍等で多くの情報に触れ、何が正し
いかを自分自身で考えることをお勧めしたい。
思考停止に陥っていることに気づき、理性的な判断を取り戻すことが、カルトの支配か
ら逃れ、真っ当な人生を始める第一歩となるはずである。
補足
当ブログも開設して2年が経過し、投稿の数もとうに100を超えた。それらの記事の中で
最も多く閲覧されているのは「池田城久の死」である。
この記事がかくも注目された理由は、創価学会において信心の師匠とされ、「私には福
運がある」「私が祈って死んだ人はいない」と豪語していた池田大作が、後継者候補とし
て期待をかけていた実の息子を救えなかったという事実が、多くの創価学会員にとって衝
撃的だったからではないかと愚考する。
外部の一般人にとっては当然のことだが、創価学会の信仰には、超自然的な病気の治癒
をひき起こすような「功徳」などない。
ありもしない「功徳」への期待をエサに、財務やマイ聖教で信者たちから金を巻き上げ
る創価学会が、インチキ宗教でなくて何であろう。
絶対に正しいと信じ、心の支えとしてきた信仰がマヤカシだという事実を直視すること
は苦痛だと思う。でもそれを避けていては、地に足をつけて生きることはできない。
一人でも多くの学会員が、真実を直視することでマインドコントロールから解放され、
より健全な人生を歩めるようになってほしいと思う。当ブログがその一助となれば幸甚で
ある。
えたのに、それでも同じことを繰り返され、困ったことがある人は現在でも多い。
直接に学会員から被害を受けた経験がなくても、インターネットや書籍で創価学会が貧
しい会員からも、財務などの金集めを行っていることを知り、その理不尽さに義憤をおぼ
えた方もいらっしゃるはずである。
創価学会員が非常識な行動を取ったり、道義にもとる振る舞いをしたりする理由は何だ
ろうか。
結論から述べると、カルト信者はマインドコントロールを受けているため、常識的な判
断力が麻痺してしまっているのである。
創価学会員について言えば、「正しい信仰――すなわち創価学会――は功徳(ご利益)
をもたらし、誤った信仰をしたり信心をサボったりすればバチがある」という思い込みが、
彼らの行動を制約している。以下、具体例を挙げて検証する。
創価学会は、公明党議員の口利きで、学会員による生活保護の申請がとおり易いように
図らっている一方で、生活保護を受給している者からも財務やマイ聖教で収奪してきた。
当然のことながら、そうした実態はマスコミ等から強い批判を受けた(「公明党による
口利きの代価」参照)。
さすがの創価学会も行動を改め、近年は「生活保護の受給者には財務をさせないように」
との指導を本部がするようになったという。
だが、この指導は実際には形骸化しているとの告発もある。
かつて婦人部の活動家だったというMeさんのブログ「創価と引寄せと私」に、彼女が
学会活動をやめるきっかけとなった出来事が記されている(脱会したわけではないとのこ
と)。
それによると、広布部員(財務をする人)を増やすようにとの目標を、上層部から示さ
れた際、ノルマを達成するために幹部が働きかけて、生活保護を受給している学会員にも
財務の申し込みをさせた。
この出来事にMeさんは衝撃を受け、非活になることを決意したそうである。
創価学会は、良識ある人間にとって耐えがたい組織なのだ。
「生活保護を受けている人には財務をさせるな」という指示が本部からあったにもかか
わらず、地域レベルの幹部がそれを守らなかったのは、なぜだろうか。
無理をしなければ達成できないようなノルマを提示した上層部にも問題があると言える
が、より根本的なのは、多くの学会員、特に幹部たちが、「生活が苦しい人にお金を出さ
せるのは気の毒だ」という、常識的な判断が出来なくなっていることにある。
学会員は「創価学会のためにお金を出せば功徳になり、福運がつく」と、本気で信じて
いる。だから「生活保護受給者はお金に困っているかもしれないけれど、財務をすれば功
徳があり、そういう境涯から抜け出せるはず」と考える。良心の呵責など感じないのだ。
もし、財務をした人に具体的なご利益がなくても、それは「当人の信心が足りないから」
であり、財務をさせた幹部が責任を感じることはない。
常識的・道徳的な思考よりも、功徳やバチに基づいた判断の方が、創価学会では尊重さ
れるのである(信仰の論理よりも常識を優先させる者は、「世法に流されている」という
批判を受け、信仰心が薄い人とみなされる)。
創価学会はその創成期から、聖教新聞や幹部の指導等を通じて「功徳とバチ」を優先す
る考え方を、学会員たちに刷り込んできた。一例を示す。
(『聖教新聞』昭和30年〔1955年〕12月18日付)
このように創価学会の出版物では、「財務をすれば功徳がある」と強調されていたが、
当然ながら外部の観察者はより冷静な見方をしていた。
『宗教と信仰の心理学』(小口偉一 編著 初版:昭和31年〔1956年〕)には、当時、世
間を騒がせていた新興宗教の幹部や一般信者に対する、宗教学者による聞き取り調査がま
とめられている。この本には、創価学会員の証言も収録されている。
証言しているのは、生活費を稼ぐために日雇い労働者をしているという43歳の未亡人で、
十分な教育を受けておらず、決して豊かとは言えない人物である。
創価学会は、こうした信者にも金を出させていた。以下、引用。
(前略)
> 昨年も寄付いってきて五〇円だしましたが、今度もまたあったんです。出しません
> でした。女の細腕一つではできませんからねえ。昨年はお山へ行くと泊るところを建
> てるというので、二〇〇円いってきたんです。五〇円でかんにんしてもらったんです。
> 最初から五〇円といってくれればいいですね。困る人ほど多く出して貰わねばならな
> いとその時いわれたんです。その時不満を感じるとバチが当るというんですねえ。怨
> 羨をするとバチがあたるといいます。テキメンに来ることがあります。弁当箱忘れて
> なくしたり。
(中略)
> 本買って読まなきゃいかんといわれるんですけどねえ。買えないし、つかれて読め
> ないし、わたしどうしたらよいかわからないんです。
この女性の証言は以上である。
「困る人ほど多く出して貰わねばならない」という指導には、「創価学会のために多く
の金を出せば、それが功徳になって宿命転換できる(今の貧しい境涯から抜け出せる)」
という含意があったと考えられる。
『宗教と信仰の心理学』の著者は、証言に続けて次のような感想を述べている。
> 教団の幹部にこのような実状を話すと、末端の行きすぎであると答えられるだろう
> が、バチにおののく気の毒な女性が第三者の胸をうつにちがいない。案外こういった
> 信仰によって教団の支えられている点が大きいのではないだろうか。創価学会の会長
> はいっている「もうからない御利益のない信仰なんかやめたらよい。もうかるから、
> 病気が治るから信仰するんですよ」「バチはテキメンですね」と。
創価学会は、誰の人生にも起こり得る様々な出来事を「功徳とバチ」で説明し、信者に
「創価学会の信仰だけが功徳をもたらす」と吹き込んできた。
「功徳とバチ」の実体は、たいていの場合、ただの思い込みである。この一円の元手も
かからないアメとムチにより、創価学会は信者を支配してきた(時として、人為的な嫌が
らせを「仏罰」だと言い張ることもあるが……)。
創価学会員は強引な勧誘等の迷惑行為を、組織を挙げて行っているが、常識に基づいて
そのようなことをやめるように説得しても、冒頭でも述べたとおり、たいていの場合、功
を奏しない。
日常の些細なことまで「功徳とバチ」のせいにする学会員にとって、学会員でない者が
困ったり苦しんだりすることは、「正しい信仰をしていないことによるバチ」であり、自
らの信仰の正しさを実証することとして目に映る。
また、他人の苦境につけ込んで勧誘したり、聖教新聞を何部も取らせたり、財務で金を
出させたりすることは、「功徳を積ませて宿命転換させ、救ってあげるため」なのである。
学会員に常識を取り戻させ、迷惑行為をやめさせるには、まずマインドコントロールを
解くことが必要なのだ。
当ブログを閲覧されている方の中にも、創価学会に疑問を持った学会員もいらっしゃる
ことと思う。そのような方には、インターネットや書籍等で多くの情報に触れ、何が正し
いかを自分自身で考えることをお勧めしたい。
思考停止に陥っていることに気づき、理性的な判断を取り戻すことが、カルトの支配か
ら逃れ、真っ当な人生を始める第一歩となるはずである。
補足
当ブログも開設して2年が経過し、投稿の数もとうに100を超えた。それらの記事の中で
最も多く閲覧されているのは「池田城久の死」である。
この記事がかくも注目された理由は、創価学会において信心の師匠とされ、「私には福
運がある」「私が祈って死んだ人はいない」と豪語していた池田大作が、後継者候補とし
て期待をかけていた実の息子を救えなかったという事実が、多くの創価学会員にとって衝
撃的だったからではないかと愚考する。
外部の一般人にとっては当然のことだが、創価学会の信仰には、超自然的な病気の治癒
をひき起こすような「功徳」などない。
ありもしない「功徳」への期待をエサに、財務やマイ聖教で信者たちから金を巻き上げ
る創価学会が、インチキ宗教でなくて何であろう。
絶対に正しいと信じ、心の支えとしてきた信仰がマヤカシだという事実を直視すること
は苦痛だと思う。でもそれを避けていては、地に足をつけて生きることはできない。
一人でも多くの学会員が、真実を直視することでマインドコントロールから解放され、
より健全な人生を歩めるようになってほしいと思う。当ブログがその一助となれば幸甚で
ある。
2019年5月5日日曜日
創価学会の行く末
令和に改元されて最初の記事となる本稿では、創価学会の今後について考える。
ありのままの実態を物語るエピソードのほぼすべてが根深い反社会性を示し、嫌悪や冷
笑を呼び起こすものばかりのカルトが、これからも生き残ることができるのだろうか。
創価学会の公称世帯数は、過去十数年間、827万世帯から変化していない。この数字は
入信者に配布した本尊の累計らしいが、明らかに過大な数字であり、そのまま受け取るこ
とはできない。創価学会がこの十数年間、まったく衰えていないとは信じがたい。
先に統一地方選挙でも、公明党候補者のほぼ全員を当選させていることから、信濃町の
本部は、学会員の実数をかなり正確に把握していると考えられるが、彼らがそれを公表す
ることも期待できない。
だが、多くの学会員・元学会員のブログを読む限り、最盛期の頃と比較して、座談会等
の会合の出席者は減少し、男子部や女子部の活動家も少なくなっているようである。社会
全体の趨勢を上回るペースで高齢化が進んでいるのは確かだろう。
したがって、創価学会の今後についての予想も、衰退は確実であることを前提とするこ
とが妥当であろう。
考えられるシナリオは、衰退のスピードが急激か、緩やかなものとなるか、あるいはそ
れらの中間ということになる。
そこで、旧ソビエト連邦と日本共産党の事例を参照して、創価学会の今後について考察
してみたい(中間については、様々なバリエーションがあり得るので割愛する)。
旧ソ連邦は東西冷戦の一方の雄であり、米国と並ぶ超大国でもあった。そのソ連が簡単
に瓦解することになるとは、大部分の人は予想していなかった。
1989年に東欧諸国で民主化革命が相次ぎ、ベルリンの壁も崩壊した。90年には東西ドイ
ツが統一し、そして91年にはソ連も脆くも崩壊した。
創価学会も何らかの出来事――おそらくは池田大作の死――をきっかけに、学会員のモ
チベーションが低下、選挙で公明党議員の落選が相次ぎ、それが更なる信仰離れを招くと
いう循環に陥ることも考えられる。
一度、衰退が始まると、坂を転がり落ちるように組織のタガが緩み、不祥事や組織の分
裂などの混乱が連鎖し、雪崩をうって瓦解することもあり得るかもしれない(個人的には
そうなってほしいと思う)。
もう一つの可能性は、日本共産党のように、しぶとく存続し続けるというシナリオであ
る。日共はソ連消滅という、共産主義の敗北を証明する決定的な出来事があったにもかか
わらず、現在もなお一定の支持を集め、当面のところ崩壊しそうにはない。
左翼の活動家も沖縄の基地反対運動などで、それなりの存在感を示している。かつては
左翼の活動家と言えば大学生という時代もあったそうだが、現在の主力は、定年退職した
かつての学生活動家だという。
創価学会の活動家も現在は壮年部・婦人部の高齢者がほとんどで、どこの組織も若手の
不足に頭を悩ましている状況らしい。
しかしながら、高齢化した活動家が病に倒れたり、世を去ったりしても、左翼と同様に
定年退職後に創価学会の活動家になる者により補充され、学会活動も当分は存続可能とい
うことも考えられる。
創価学会は、ソ連と日共のどちらに類似した運命をたどることになるだろうか。
旧共産圏諸国の体制が動揺したのは、「資本家に搾取されているはずの西側の労働者の
方が、共産圏の労働者よりも物質的な豊かさを享受している」という情報が広まったこと
が大きかった。
それに対し、日本共産党の党員やシンパたちには、共産主義の矛盾を示す情報に触れて
も、支持を変えない者が少なくなかった。
旧共産圏は社会全体を包摂する国家だったので、国民の大多数を占める常識的な人びと
が外部の情報に触れ、共産主義の妥当性を疑うようになった結果、体制を維持できなくな
った。
一方、日本共産党は社会全体からすれば、ごく一部に過ぎない支持者に支えられている。
狂信的な信奉者の忠誠心をつなぎ止めさえすれば、組織を維持できるのである。この点は
創価学会もまったく同じである。
こうした観点から考えると、創価学会も日本共産党と同様に急激な崩壊を免れ、相当の
期間、組織を存続させる可能性の方が高そうである。
だが、その道筋が穏やかな余生のような、波風の少ないものになり得るだろうか。
かつて一世を風靡した新興宗教のなかには、創価学会が敵視してきた天理教や立正佼成
会のように、緩やかに衰退している団体もある。
しかしながら、数々のトラブルを引き起こしてきた創価学会には、静かに衰えゆくなど
似つかわしくない。
新興宗教はいずれも、多かれ少なかれ、騒動や問題を引き起こしてきた過去を持つが、
創価学会のトラブルの多さは別格である。
折伏大行進、集団替え玉投票事件、投票所襲撃事件、言論出版妨害事件、顕正会との抗
争、日蓮正宗との衝突とその後の破門、池田大作が引き起こした数々のスキャンダルとそ
れを報じたジャーナリズムとの訴訟沙汰等々、世間を騒がせた事例は数多い。
創価学会は衰退の過程でも、多くの騒動をひき起こし、毒をまき散らしながら自壊して
いくことになると考えた方がよさそうである。
また、彼らはこれまで多くの敵を作り、恨みを買ってきた。創価学会がはっきりと目に
見える形で力を落とせば、鬱積した憎悪が噴出することになるだろう。
池田大作というカリスマを失った創価学会が、そうした敵意に耐え、会員たちをつなぎ
止める求心力をどこまで維持し続けられるだろうか……。
インターネット等で発信されている否定的な情報から目を背け、創価学会だけを盲信し
しがみつく少数の学会員に支えられ、細々と存続していくのかもしれない。
社会にとってはよいことだが、創価学会には、どう転んでも明るい未来の可能性はなさ
そうである。ましてや、彼らの言う「広宣流布」の実現など、夢物語だろう。
ありのままの実態を物語るエピソードのほぼすべてが根深い反社会性を示し、嫌悪や冷
笑を呼び起こすものばかりのカルトが、これからも生き残ることができるのだろうか。
創価学会の公称世帯数は、過去十数年間、827万世帯から変化していない。この数字は
入信者に配布した本尊の累計らしいが、明らかに過大な数字であり、そのまま受け取るこ
とはできない。創価学会がこの十数年間、まったく衰えていないとは信じがたい。
先に統一地方選挙でも、公明党候補者のほぼ全員を当選させていることから、信濃町の
本部は、学会員の実数をかなり正確に把握していると考えられるが、彼らがそれを公表す
ることも期待できない。
だが、多くの学会員・元学会員のブログを読む限り、最盛期の頃と比較して、座談会等
の会合の出席者は減少し、男子部や女子部の活動家も少なくなっているようである。社会
全体の趨勢を上回るペースで高齢化が進んでいるのは確かだろう。
したがって、創価学会の今後についての予想も、衰退は確実であることを前提とするこ
とが妥当であろう。
考えられるシナリオは、衰退のスピードが急激か、緩やかなものとなるか、あるいはそ
れらの中間ということになる。
そこで、旧ソビエト連邦と日本共産党の事例を参照して、創価学会の今後について考察
してみたい(中間については、様々なバリエーションがあり得るので割愛する)。
旧ソ連邦は東西冷戦の一方の雄であり、米国と並ぶ超大国でもあった。そのソ連が簡単
に瓦解することになるとは、大部分の人は予想していなかった。
1989年に東欧諸国で民主化革命が相次ぎ、ベルリンの壁も崩壊した。90年には東西ドイ
ツが統一し、そして91年にはソ連も脆くも崩壊した。
創価学会も何らかの出来事――おそらくは池田大作の死――をきっかけに、学会員のモ
チベーションが低下、選挙で公明党議員の落選が相次ぎ、それが更なる信仰離れを招くと
いう循環に陥ることも考えられる。
一度、衰退が始まると、坂を転がり落ちるように組織のタガが緩み、不祥事や組織の分
裂などの混乱が連鎖し、雪崩をうって瓦解することもあり得るかもしれない(個人的には
そうなってほしいと思う)。
もう一つの可能性は、日本共産党のように、しぶとく存続し続けるというシナリオであ
る。日共はソ連消滅という、共産主義の敗北を証明する決定的な出来事があったにもかか
わらず、現在もなお一定の支持を集め、当面のところ崩壊しそうにはない。
左翼の活動家も沖縄の基地反対運動などで、それなりの存在感を示している。かつては
左翼の活動家と言えば大学生という時代もあったそうだが、現在の主力は、定年退職した
かつての学生活動家だという。
創価学会の活動家も現在は壮年部・婦人部の高齢者がほとんどで、どこの組織も若手の
不足に頭を悩ましている状況らしい。
しかしながら、高齢化した活動家が病に倒れたり、世を去ったりしても、左翼と同様に
定年退職後に創価学会の活動家になる者により補充され、学会活動も当分は存続可能とい
うことも考えられる。
創価学会は、ソ連と日共のどちらに類似した運命をたどることになるだろうか。
旧共産圏諸国の体制が動揺したのは、「資本家に搾取されているはずの西側の労働者の
方が、共産圏の労働者よりも物質的な豊かさを享受している」という情報が広まったこと
が大きかった。
それに対し、日本共産党の党員やシンパたちには、共産主義の矛盾を示す情報に触れて
も、支持を変えない者が少なくなかった。
旧共産圏は社会全体を包摂する国家だったので、国民の大多数を占める常識的な人びと
が外部の情報に触れ、共産主義の妥当性を疑うようになった結果、体制を維持できなくな
った。
一方、日本共産党は社会全体からすれば、ごく一部に過ぎない支持者に支えられている。
狂信的な信奉者の忠誠心をつなぎ止めさえすれば、組織を維持できるのである。この点は
創価学会もまったく同じである。
こうした観点から考えると、創価学会も日本共産党と同様に急激な崩壊を免れ、相当の
期間、組織を存続させる可能性の方が高そうである。
だが、その道筋が穏やかな余生のような、波風の少ないものになり得るだろうか。
かつて一世を風靡した新興宗教のなかには、創価学会が敵視してきた天理教や立正佼成
会のように、緩やかに衰退している団体もある。
しかしながら、数々のトラブルを引き起こしてきた創価学会には、静かに衰えゆくなど
似つかわしくない。
新興宗教はいずれも、多かれ少なかれ、騒動や問題を引き起こしてきた過去を持つが、
創価学会のトラブルの多さは別格である。
折伏大行進、集団替え玉投票事件、投票所襲撃事件、言論出版妨害事件、顕正会との抗
争、日蓮正宗との衝突とその後の破門、池田大作が引き起こした数々のスキャンダルとそ
れを報じたジャーナリズムとの訴訟沙汰等々、世間を騒がせた事例は数多い。
創価学会は衰退の過程でも、多くの騒動をひき起こし、毒をまき散らしながら自壊して
いくことになると考えた方がよさそうである。
また、彼らはこれまで多くの敵を作り、恨みを買ってきた。創価学会がはっきりと目に
見える形で力を落とせば、鬱積した憎悪が噴出することになるだろう。
池田大作というカリスマを失った創価学会が、そうした敵意に耐え、会員たちをつなぎ
止める求心力をどこまで維持し続けられるだろうか……。
インターネット等で発信されている否定的な情報から目を背け、創価学会だけを盲信し
しがみつく少数の学会員に支えられ、細々と存続していくのかもしれない。
社会にとってはよいことだが、創価学会には、どう転んでも明るい未来の可能性はなさ
そうである。ましてや、彼らの言う「広宣流布」の実現など、夢物語だろう。